ガラスの仮面

えーっと、初めてかしらん、未完結の作品を取り上げるの。

美内すずえガラスの仮面』です。

言わずと知れた少女漫画の傑作。

演劇にすべてをかけた少女が紡ぎだす愛と運命の大河ドラマです。

ストーリーは今さら説明するまでもないので、

みなさんそれぞれWikipediaとか参考にしてください。→『ガラスの仮面』

あと、作品の魅力とかについても、まあ今さら言うまでもなく面白いし、

文庫版12巻の巻末解説にて呉智英氏が言いたいこと全部語っている。

(すなわち「近代文芸理論の無力さを嘲笑うかのような徹底的な面白さ」)

なので、

ここでは、

マヤと亜弓さんの対立構造について考えてみたいと思います。

マヤと亜弓さんは当初、マヤ=凡人、亜弓さん=天才という構図で出会う。

ラーメン屋でバイトする平凡で何のとりえもないマヤに対し、

父親が映画監督、母親が大女優、さらに華道も日舞などの

お稽古ごとにも通じた“サラブレッド”たる美少女の亜弓さん。

演技・美貌・家柄、どれをとっても亜弓さんがマヤを圧倒しており、

実際にマヤ自身がそのように感じている。

だけど、マヤは持ち前の度胸と努力をいとわない根性、

そして演技にかけるひたむきな情熱で、亜弓さんと互角の勝負をする。

と、読めるのが中盤まで。

だいたい2人による「独り芝居」編(文庫版12巻後半)あたりから、

このマヤ=凡人、亜弓さん=天才の構図が逆転し始める。

マヤは自らの力で独り芝居を思いつき、さらにそれを成功させる。

とある事件によって失われていた演劇への情熱を取り戻し、

師である月影先生ははっきりと「あの子は天才よ」と語る。

一方の亜弓さんはというと、これまで語られてこなかった過去が語られる。

親の七光りと陰で嫌がらせを受けていた日々、

自分のすべてを自分の力で表現できる演劇との出会い、血のにじむような努力。

そして「努力して ひとのいう“天才”になったにすぎないわ」と語る。

つまり実はマヤこそが天才であり、

亜弓さんこそ凡人──ただし努力する凡人──だったのだ、とわかる。

そしてこれは、『ガラスの仮面』が、

いわゆるスポ根漫画に陥らないための絶対的なストッパーでもあるわけです。

スポ根漫画に必要なものは、努力する凡人の主人公と天才のライバル。

それはそれで面白いストーリーができるし、実際傑作がいくつもある。

ちばあきお『プレイボール』とかね。

だけども『ガラスの仮面』は、そうじゃない。

スポ根漫画性も内包しつつ、もっと純粋な“漫画的面白さ”を追求している。

例えば、マヤが自身の天才性を無意識に発揮するカタルシス&爆発力、

あるいは彼女の天賦の才能を知ってなお、

歯を食いしばって抗う亜弓さんの苦悩に満ちた美しさ、

観客のマヤを見る目が高評価に転じる瞬間の逆転劇、などなど……。

スポ根的でありながら、スポ根漫画にはならずに、

読者が望む漫画的快楽を一身に背負って、

呉智英がいうところの「徹底したご都合主義」を目指してひた走る。

そのためにはマヤが天才で、亜弓さんが努力家であることが、

やっぱり絶対に必要なのだなと私は思う。

とりあえず美内先生がいよいよ本腰を入れ始めたし、

どうやら生きている間に完結しそうな気配が見えてきたので、

今後もニヤニヤしながら期待したいと思います。あと亜弓さんラブ。