トリフィド時代

大抵の人は一度は次のような妄想をしたことがあると思います。

人類が何らかの原因で極端に減少してしまい、
自分or自分を含む少人数の人間だけがどうにかして生き延びている。
文明社会は停止したものの、しかし食料やガソリンなどは十分に残されており、
少なくとも飢えや寒さに苦しめられることはなく、
また、パニックや自暴自棄、心ない人々が引き起こす大規模な争乱もない。
やがて生存者はコミュニティー(そこには自分のことを好いてくれる異性がいる)を形成し、
新たな文明の担い手として、穏やかに新社会を築いていく……。

要するに、SF用語でいうところの「心地よい破滅」ってやつですが、
今回取り上げるコレ、『トリフィド時代-食人植物の恐怖-』も、
そういった「心地よい破滅」を描いた古典SFとして知られています。

あらすじはこうです。

ある日、全世界規模の流星雨が発生し、地球のすべての空が緑色の光に覆われる。
しかしその翌日、この天体ショーを目にした人々はことごとく失明していた。
主人公を含む、ごく少数の流星雨を見なかった人だけが健常者となってしまったのだ。

ときを同じくして、新種の植物トリフィドが人々を襲い始める。
トリフィドはある時期から突如現れた謎の植物。3本の根を使って歩き回るだけでなく、
頭部から生える毒の鞭で動物を殺し、その腐乱死体を栄養源とする習性がある。

高品質の植物油採取のために世界中で栽培されていたトリフィドだが、
その存在は今や人類にとって最大の脅威と化した。
主人公はわずかに残った健常者たちとともに新しいコミュニティ創設を目指すが……。

トリフィドという敵との戦い、コミュニティ創設にともなう人間同士の争いなどはありますが、
おおむね事態は穏やかに進行するのが、「心地よい破滅」と称される所以です。

主人公は大人の男性。ヒューマニストでありつつも、適度に諦観しており、
助けられるものと助けられないものとはっきりと見極めている。
また、主人公は独身で家族とも(事件以前から)死別しており、しがらみはない。

やがて、同じ境遇の目が見える女性と出会い、彼女と行動をともにする。
戦争や飢餓が発生したわけではないので、
家屋や自動車、食料などは豊富に残されているし、
大規模な戦闘シーンやパニック、原因追求のサスペンスは発生しない。
「どう生き延び、どういうコミュニティーを再生するか」がメインテーマとして描かれる。

言ってみれば“俺が考えた人類滅亡”であり、都合がよすぎと断じてしまうこともできる。
時代背景的に、50年代の冷戦構造を色濃く反映しており、
世界がまだまだ「小さな国家」だった時代でこそリアルに感じられる、とも評されてます。

翻って現在の世界を鑑みるに、人類が滅亡の淵に立たされた場合、
おそらく本書で描かれるような“落ち着いた破滅”にはなりそうもない。
少なくとも、パニックや争いが頻発するような破滅のほうがリアルに感じられる、ようだ。

じゃあ本作は単なる「作者の妄想」、
あるいは「俺にとって都合のいい人類滅亡SF」なのかというと、決してそうではない。
「心地よい破滅」という評価を差っぴいても、本作は読む価値がある。

まず著者であるウィンダムの文章が素晴らしく読みやすい。
翻訳の功績もあるんだろうけど、絶望的な状況に置かれた人々の不安や恐怖、
それらに耐える苦しみ、決意などが巧みに・丁寧に表現されている。

例えば、失明に絶望して自殺するカップルを見かけた主人公の心情。

「お前は心臓に毛を生やさなくちゃいけない」と、私は自分にいいきかせた。
「ぜひとも。そうするか、でなかったらしょっちゅうよっぱらっているかだ。あんなことは、
そこいらじゅうで起こっているにちがいない。そして、今からも起こり続けるだろう。
お前には、それを、どうすることもできない。連中に食べ物をやって、
さらに数日間いかしておいたところでだ、そのあとはどうなる。お前は事態を
そのままうけとって、それと妥協するすべを学ばねばならない。それ以外に手はない、
アルコールという逃げ道をのぞいては。これを乗り越えて、みずからの生命を
生き抜くために戦わないと、生き伸びるものはひとりもあるまい。
……あくまでもがんばり通すだけのたくましい精神を持ちえた者だけが、
これを切り抜けることができよう……」(P124より)

ほとんど“ねちっこい”とさえ言える描写だけども、
言い回しが適度に簡潔なので、読みにくさはありません。
それに、作者が島国イギリス出身ということもあってか、
日本人にも比較的共感しやすい価値観が提示されています。

原書の初版は1951年、日本での初版は1963年と、半世紀も昔の作品ですが、
この読みやすさ、文章の巧みさは現在でも評価されうると思う。

そして本書を価値あるものにしているもうひとつの要素は、言うまでもなくその設定。
「ほぼすべての人類が突如として盲目になる」。
「人類を襲う奇怪な植物が闊歩している」。
この2つの設定だけで、なんとまあ複雑な心理とドラマが生まれることか。

単に自分以外の人類が死亡したというのなら、物語はもっと単純だったはず。
そうではなくて、目が見えない人が一夜にして大量発生するという秀逸さ。
当然、目が見える主人公は「助けられる人を見捨てる」という行為にも迫られる。
また、新しいコミュニティーで盲人たちをどう位置付けるかでも、
さらなるドラマと心理描写が発生するわけです。

加えて人類にとって最大の脅威となるトリフィドの存在。
トリフィドはあくまで植物なので、その気になれば駆逐できるけれども、
視力という最大のアドバンテージを奪われた人々にとっては恐怖そのものとなる。

作中、トリフィドはお互いにコミュニケーションできるのではないかということ、
ある程度の知性を持っているのではないかということなどが示唆される。
また、トリフィドが国家による生物実験で偶然生まれた物であり、
事故によって世界中に拡散したのではないか、ということも……。
(なお、流星雨は何らかの衛星兵器だったのではないかとも示唆される)

こうして街中を跋扈し人間を襲うようになったトリフィドは、
言ってみれば人類&文明社会のもろさの象徴であり、
作者による文明批評、人類の不遜さへの批判と読み解くこともできる。

この絶妙な設定と、先にあげた文章の巧みさが融合しているからこそ、
本作は単なる「心地よい破滅」を超え、
古典SFのマスター・ピースとして数えられるまでになったのではないでしょーか。
いわゆる“ゾンビ終末もの”以前の作品であることにも注目してほしい。5つ星の傑作。