もののけ姫

うひょお、この「やっちまった」感。
初のジブリですよ。ジ・ブ・リ。スタジオ・ズブリって同人サークルあるよな。まあいい。

えー、メジャーもメジャー。超メジャーなアニメ映画。
今まで取り上げてきた作品なんか目じゃないよ。メジャーなだけに。

あらすじは省略。知らない人のほうが少ないと思うし、
作品そのものの面白さも、今さらこのブログで伝えるまでもないでしょう。

ただ、この場では、本作を鑑賞するもうちょっと別の視点を紹介してみたいと思う。
題して、「『もののけ姫』は村おこしである」論、だ、です、はい。

ツイッタやらFBやらでも散々提唱(提唱?)してきた持論ですが、改めて取り上げる。

えー、『もののけ姫』の主たるテーマをざっくり言うと、
「自然と近代的社会との対立&共生」とゆーことです。たぶん。

シシガミの森=自然であり、タタラ場=近代的社会(“的”ね、あくまでも)。
自然の代表は、モロの君やサン、乙事主やイノシシ、猩々ら。
近代的社会の代表は、エボシと彼女を慕うタタラ場のメンバーたち。

個々の生き物や人間たちは悪い存在ではないんだけども、
お互いに相容れない・矛盾しあう存在であり、
自分たちが生き・そして生き残るために、相手と命がけで戦っている。
その裏であれこれ企んでいるのが、ジコ坊や唐傘連などだ。
アシタカはその現状に苦悩しながらも、なんとかギリギリの均衡を探ろうとしている……。

これを、先に挙げた“村おこし論”にまで落とし込んでみると、こうなります。

シシガミの森は、実は、都市部との格差で廃れゆく村であり、小規模コミュニティである。
サンやモロの君らは、何らかの理由(家、土地、高齢など)で村から離れられない人々。

対して、発展するタタラ場は、郊外にできた大型店舗、ショッピングモールであり、
タタラ場の面々は店舗で働く(あるいは店舗に依存して働く)、村の新しい世代。
そして、エボシは人々に職と居場所・働きがいを与える雇用創出者。

雇用創出者は、多くの場合、決して悪人ではないものの、
急進的なやり方が既存の村と、村に残る人たちとの間に摩擦を生んでいる。

で、その摩擦に乗じて暗躍するのが、
土地の利権や地元の重要資源に目を付けたフィクサー地上げ屋たち。
もののけ姫』でいえば、ジコ坊や唐傘連たちこそがフィクサー地上げ屋であり、
土地の重要資源がシシガミの首、となるわけです。

ではアシタカは、いったい何に相当するのか。

これはもう、言うまでもなく、村おこしに必要な3要素、「若者・よそ者・バカ者」、
そのすべてを兼ね備えた第一級の“村おこさー(村おこし+er)”だ。
若者らしい情熱、よそ者ならではの視点(曇りなき眼)、バカ者の行動力で
村側の人間も大型店舗側も、フィクサーたちも巻き込んでしまう、そんな役割。

そうやって考えると、自然vs近代的社会という構図も、
既存のコミュニティvs新しい大型店舗、という対立軸に見なすことができる。

実際、“変わらない(あるいは変われない)既存のコミュニティ”と
“発展する新規ショッピングモール”との対立ってのは大なり小なり起きており、
シャッター通り焼畑商業といった都市問題として顕在化している。
(いっちばん分かり安いのがウォルマートだね)

もののけ姫』の物語上では、シシガミの森もタタラ場も大打撃を負ってしまうものの、
それぞれが自分たちの“分”を認め、共生の道を模索し始める。
……というところで終わりを迎えている。

現実世界の“村おこし”ではどうでしょうか。

古くからの慣習や習わしに固執し過ぎた既存の村は過疎に苦しみ、
急進的に出店を推し進めた大型店舗は、周囲から批判・非難を浴びている。
痛い目を見た双方が手を取り合って、地域の健やかな発展を目指したという事例は、
寡聞にして耳にしたことがありませんが、
ひょっとしたらどこかでそんな話も起きている……かもしれないですな。情報求む。

とまあ、あれこれしゃべくってみましたが、宮崎駿監督の意図とは全然別でしょうし、
あくまで「こんな風に観ることもできるんじゃねーの」というだけの話です。

ただ、この“観客に許される視点の幅広さ”は、まぎれもなく『もののけ姫』の魅力だし、
そういう普遍性の高い作品、あれこれ応用できる作品って好き。
とゆーわけで、これから先、本作を観る機会があれば、
自分なりの視点・観点であれこれ考えてみるのも一興かと思いますよ。