パンの大神

更新頻度のことは、言うな。いちおうまだ続いてます、ホラー回。今回はこれ、アーサー・マッケン『パンの大神』。おおかみ、と読みます。

パンといっても、あんパン食パンカレーパンのパンではなくて、ギリシア神話に登場する牧神のほうのパン。山羊の角と、四足獣のような下半身と、旺盛な性欲を持つあの神様です。パーンとも言いますな。

あらすじについては……省略していいか。あんまり意味がないといえばない。トレパネーションを思わせる奇怪な実験の被験者になった少女と、ロンドンをさわがせる奇怪な事件と、その中心人物である謎の女性を巡って、およそ人間界の道徳や知識では到達しえない冒涜を描いた怪奇小説……とでも認識しておけば、大きなズレはないです。

ただ、本作が発表されたのは1894年。100年以上も昔のこと。近代的な科学文明が花開き始めた時代であり、まだまだ宗教的な抑圧が強い。なので現在の小説のような、直截な表現を期待すると肩すかしを食らいます。

その代わり、そこかしこに性的な“ほのめかし”があり、女性たちがパン(あるいは何かしらの根源的存在)との精神的&肉体的交感を行ったのではないか、と読ませる作りになってます。ここんところが本作のキモ。

他の作品である『白魔』とかを読むとわかるんだけど、著者のアーサー・マッケンは、「この世界には人知を超えた存在って奴があるのでは?」ということに恐怖というか、畏怖の念を感じていたように思います。

ゾンビや吸血鬼、狼男なんかは、確かに怖いではあるけど、それは「肉体を傷つけられることへの嫌悪感」であって、存在そのものは見慣れてしまえばどうということはない。

そうじゃなくて、「ただ、それそのものが恐ろしい」という恐怖。自分という存在、自分が自分であるための拠り所をたやすく超越し、人間存在の根幹をおびやかすような圧倒的な原初的存在。そういうものはおそらく実在し、しかも現世のすぐそばに横たわっているはず──。マッケンはこう考え、本作ではそれを“パンの大神”と称したわけです。

ただ、事細かに描写してしまうと、当時の社会通念上いろいろ問題があったし、恐怖ってやつは具体的に説明すればするほど薄れてしまうので、“ほのめかす”という手段を取ってはいますが……。

それでもこの小説は、発表当時、かなりセンセーショナルだったらしく、その微妙にセクシャルな内容と相まってかなり批判されたとか。言ってみればキリスト教の教えを全否定するものだし、「キリスト教に駆逐されたケルト神話とかの神様のほうがハンパねえぜ!」と言ってるようなものなので、さもありなん。

マッケンが取り上げた“人知を超えた存在”と“ほのめかし”の手法は、20世紀以降、ご存じH・P・ラヴクラフトによって存分に発揮されます。そういう意味でラヴクラフトファンにオススメなんですが、テーマ自体が似通っているので、ラヴクラフトファンであればあるほど「怖い!」とは思わないはず。ホラーの洗礼を受けまくった人にとってはやや古臭いってこと。

ただまあ、面白いことは保証します。奇怪な実験の末、少女はどうなったのか? 恐ろしい事件の背後に見え隠れする女性の真の姿とは? そして彼女はどこから来たのか、その結末は?

そういう謎をやたらとねちっこい描写でゆっくりと解き明かしていくのは、わざわざ寄席まで落語を聞きに行くかのような、贅沢なスロー感がある。スピード感あふれるモダンホラー作品では味わえない冗長さ。

古い作品だけあって読むのにいささか骨は折れますが、怪奇小説好きなら教養のためとしても読んでおきたいところ。お手軽に読むのなら下にある『怪奇小説傑作集 1』がおススメです。本作のほかW・F・ハーヴァー『炎天』、W・W・ジェイコブズ『猿の手』なども秀逸。 

怪奇小説傑作集 1 英米編 1 [新版] (創元推理文庫)

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