ピエタ

どうも、前回は初めてアメコミ翻訳をしてみました。

今後も続けますよ、もちろん。とはいえ普通の更新も続けていくのですが。

さて、ツイッタやら何やら見てると、

どうもレズ・百合論争とでも言うべきものがあるようです。

いわく、手をつなぐのは百合、セックスしたらレズ、

抱き合うのは百合、いろいろな部分を“合わせる”のはレズ、

精神的な愛は百合、肉体的な愛はレズ、etc、etc…。

これがフィクション作品のジャンル分けのみ使われているのか、

あるいは実際の─つまりリアルの女性同士の恋愛にも適用されるのか、

そこんところの詳しいあれはぶっちゃけ知りません。

(でもフィクションのジャンル分けに関する定義なら、

「百合作品」、「レズ作品」と書くよなあ)

まあ言葉の定義合戦というか、何というか、どうでもよくね?

といったところで今回の作品。榛野なな恵ピエタ』です。

作者の榛野なな恵は長期連載の『Papa told me』も手掛けており、

シャープな線でありつつも、どこかほわっとした空気を描く作家。

あらすじはこうです。

賢木理央と比賀佐保子は同じ女子高に通う高校3年生。

クールかつどこか危うい雰囲気をまとう理央は、

幼少期のある事件と継母からの心ない言葉によって

心に深い疎外感と絶望を抱えていた。

一方の佐保子は人当たりもよく、

誰もがうらやうむほどの愛情を受けて育ったものの、

2年間の不登校を経験した過去を隠しており、

心の奥底ではどこか不安な気持ちを抱えていた。

理央は佐保子に出会ったことで、少しずつ心の扉を開いてゆくが、

理央を嫌う継母の手によって精神的に追い詰められてしまう。

そんな理央に、佐保子は救いの手を差し伸べ……。

全2巻なのでストーリーはそこまで壮大でも波乱万丈でもないです。

メインになるのは、理央と佐保子の心の交流。

感受性の鋭い理央は、

佐保子と出会うことで平穏を取り戻していくが、

同時に他者からの害意にも鋭敏である。

そのため自傷行為で気を紛らわせるような悪癖も持っている。

しかし佐保子は、そうした理央に物怖じしない。

ともすれば一般社会から浮いてしまうかもしれない彼女を受け入れ、

同時にまた、そうすることで自分自身も成長していく。

理央も、そんな佐保子に応えるように、強くなっていく。

2人の少女が、お互いに認め合い、助け合い、

手を取り合って生きていく──。

そんな物語が、優しくあたたかい視点で描かれています。

で、なんでそれがレズ・百合論争につながるのか。

後半、理央とともに生活を始めた佐保子に、

理央のカウンセラーが問いかける。

「理央君にとって君はいったいどんな存在なんだろうか

 友人 恋人 母親 同志 さてはて」

それに対し、佐保子はこう答える。

「どうして人は自分を分類したがるのかしら

 小さな引き出しに役名を書いたラベルを貼って

 その中に入りたがるのかしら

 きっと役名が無いと不安だからね

 私もずっとその箱にとじこもっていたからわかるんです

 でも理央ちゃんのおかげで出てこれたの

 だから今は与えられた役名は何も無い

 他の人達がどう思おうが

 どう呼ぼうが どうでもいいんです

 私達は私達をわかっているから

 ただ優しくして 優しくされたい それだけ

ここです。このセリフに注目。

確かにケンカや肉体関係なんかのドロドロした部分もあるやも、でしょう。

だけども、根っこのところでお互いがお互いのことを大切に思いやり、

思いやられることに充足を感じるという関係。

まさにこの瞬間、レズだの百合だのというレッテルは意味を失う。

心から互いを思いやっている2人に、ジャンル名は不要なのだと。

逆を言えば、レズ・百合といった表層の言葉にとらわれているうちは、

上記のような関係性になることはできないんじゃないか。

無論、フィクションにおける百合作品、レズ作品という

ジャンル分け・定義分けが悪だと言ってるわけではないです。

しかし、言葉による定義分けが作品自体を縛ることもあるし、

定義合戦の行きつく先は、さらに細分化された定義合戦だということも、

私達はすでに経験的に知っているわけで。

この作品を読んだ後だと、果たして百合・レズと分けることに

何の意味がありますかと問いたくなる気持ちはあるんですよねえ。

まーともかく、非常に面白い作品です。オススメ。

同性恋愛、異性恋愛を超えたところにある、

魂の伴侶(ソウルメイト)の在り方を描いた傑作。読後感もいいです。

これが14年も前にヤング・ユーに連載作なんだから、あなどれん。

いま連載されてたら絶対ヒットしてただろうなあ。