幼年期の終り

なんかSFはひさしぶりな。クラーク先生の『幼年期の終り』です。

面白すぎて、面白さを伝えきる自信がないのだけれど。

物語は米ソの宇宙開発競争の時代から始まります。

両国の科学者たちがそれぞれ宇宙を目指して研究に励んでいるまさにそのとき、

空を覆わんばかりの巨大な宇宙船が、全世界の空に現れた。

圧倒的な科学力と完璧な知性で、地球を統治下に置く宇宙人ら。

戦争は禁止され、ひどい圧政なども地球上からすべて払しょくされた。

あらゆる戦争・紛争は地球上から姿を消し、

その結果、全世界の生活水準・知的水準がゆるやかに向上した。

ただ、彼らは決してその姿を見せようとしなかった。なぜか?

そして地球にやってきた目的も明かそうとしなかった。なぜか?

その答えは、人類の未来に関わるものだった。

ネタばれでもかまわないという人はこちら→Wikipedia「幼年期の終り」

本作で描かれたものは、人類と、人類を超えた圧倒的存在と、

その圧倒的存在すら超えた超越的存在との邂逅、およびその行く末。

そして、その行く末に、人類は絶対にたどり着けないということ。

宇宙的スケールと宇宙的時間軸でもって考え、行動する存在がいた場合、

人類はその存在を爪の先ほども知覚できないだろうし、

その行動目的も存在意義も理解できないはず。

アメーバが人間のことを想像もできないように、

人類は宇宙人のことを表面的にしか知ることができない。

そしてその宇宙人ですら足元におよばない存在があるのだ、と。

そこには、言葉にできないほどの孤独と諦念が満ちているんだけど、

同時にある種の愉悦も生まれると思う。

だって、すべてをあきらめられるほどの圧倒的存在や

完璧な“理解の範疇外”を前にしたなら、誰だって平和になるしかないじゃん。

およそまともな人間には到達することのできないほどの、心の平和。

それこそ神に対峙した宗教家のような……。

いずれにしても、圧倒的な敗北は圧倒的なあきらめを生み、

「悔しい!」だとか「勝ちたい!」みたいな執着心を捨て去ることができる。

言いかえれば、運命をすんなり受け入れられるようになる。

運命の奴隷とも言えるし、完全な自由ともいえる。

だから、何もかも嫌になったときは、

本作に登場するようなオーバーロードたちがやってこないかなあ、

などと、ときおり夢想したりするのです。